文章力とか会話力とか

essay

きっと永遠のコンプレックスだと思っています。これでも大分良くなっては来ているのだけれども、いろいろな人の日記を読んだり、本、特に小説を読んだりすると、自分のセンスのなさはともかく、基礎的な表現力のなさを痛感します。

でも、この表現力のなさはずっと自覚しているのですが、あまり過剰に意識してしまうと逆に自分のいいたことがいえない。だから、あまり悩まずに、とにかく話したり、書いたり、そういうことをずっと続けてきました。

この姿勢に拍車をかけたのがやはり、大学受験?大学?大学院、だと思いますね。根っからのアンティ巨人のようにT大を毛嫌いし、東京の予備校なのにわざわざ1クラスだけのK大クラスに入った自分。これらの大学、解答方法・解答用紙がちょっと雰囲気が違う。Tのほうは、決められた枠内に収まるよう、英語なんかでもよくあるが時に字数制限をして答えさせる一方、Kのほうは、ほとんど解答用紙は白紙で好きなように回答しなさい、といった感じででした。こうした対策をしながら勉強して入学したというわけです。

当然大学自体にもそういったカルチャーはあったと思います。ここから先、他の大学がどうだったかはわかりませんが、とにかく理学部のレポートのほとんどは答えなどなく、そこへたどりつくためのプロセスを自由に展開するといったタイプが多かったと思います。結局答えがわからなくても、きちんと考え抜いてそれを思う存分表現すればいい成績がもらえたのではないでしょうか。中にはそうではない授業もありjましたが、非常にためになった、そして感銘を受けた授業の多くは、とにかく「自由に考えて表現しよう、形式にとらわれずに」的なものが多かったような気がします。

しかし、大学院は一転、いろいろ諸事情により昔毛嫌いしていたほうに行ってしまった(※よく予備校の友達に「裏切り者」扱いされましたw)のですが、僕の選んだ研究室もどちらかというと良くも悪くも同じようなカルチャーでした。

そんな自由に制限なく意見を述べよ的なもとで会話&文章表現をしてきたため、社会人に入ってからはしばらく苦労しました。しかし、最初に飛び込んだファンドビジネスの場合は、定期的なレポートを書くケースがきわめて多いことが幸いし、諸先輩方のご指導等もあり、学生の頃に比べれば少し時間をかければまとまった論理的な文章が書けるようにはなりました。

「難しいことには投資しないものだ」というのが、当時のクオンツチームの部長の口癖でした。

また、「猿でもわかるようにプレゼンしてくれ」、というのが次に転職した先のメーカーの主任さんからよく言われたことでした。

そして、弱小ベンチャーにてファンド組成をした時、経験も実績もない会社のファンドを売ってもらうべくどうプレゼンすればよいのか、マーケティングすればよいのか、さらにベンチャーキャピタルに興味を持ってもらうための事業計画書をどう書けばよいのか、会社案内、HPはどうすればよいのか、誰の協力もなく考えなければならない状況下におかれました。

こうした学生の頃の経験や社会人の経験を通して、昔に比べれば表現の仕方はとても上手にはなったと思っています。

それでもやはり、あとからいろいろと上乗せできても、所詮は能力やセンスが従来身についていないためにスタート直後の作成物は非常に拙いものなのです。

絶対にそうなることはありえないとはいえ、昔、大学院の頃の教授が学生の頃にお世話になった指導教官Yangは、彼はノーベル賞を受賞した天才物理学者ですが、その彼は話し言葉がそのまま論文になるほど整然とした言葉の表現が自然にできたのだそうです。

はるかに遠い、きっと永遠に追いつくことのない理想は一応持ち合わせている、ということです。でも、こうしたむちゃくちゃな理想を持っているからこそ、少しずつではありますがもっと上達しなければいけないなって思いがわいてくるのでしょうね。

それにしても最近は、なんか考えるととても疲れます。これって老化のはじまりなのかな…。昔に比べて思考能力が衰えたなってつくづく思います。

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