この仕事をしていて、嫌いな言葉、なかでも現在の環境でよく耳にする嫌いな言葉、というのが「統計的有意性」と「分布の仮定」かもしれない。
特に「統計的有意性」というのは、これらのなかで一番嫌いな言葉かもしれない。自分の意見=言葉ではなく昨日の発掘作業で見つけた「D.N.マクロスキー著、ノーベル経済学者の大罪(洋書タイトル ”D.N.McCloskey, The Vices of Economists – The Virtues of the Bourgeoisie”)」からの引用になってしまうが、その中で筆者が言う知的悪習の一つ、
「統計的有意性」(statistical significance)という言葉を、技術的な意味で使用しながら、「科学的重要性」(scientific significance)と同一視したクラインの信念。
という文章は、自分自身のフラストレーションを代弁してくれていると思う。
よく自然科学で出てくる、いや物理というべきか、”evaluation”という考え方というか哲学というか、うまく言えないけれどこういうのが感じられないレポート・リサーチはどうしてもフラストレーションを感じざるを得ない。同じ著書の中で述べられていた、
“How Big?” ”So what?”
という言葉が同じような概念であろう。
でも、逃げ道はあって、ここにもし「儲かる」というファクターが入ると、突如一番説明力が上がる。それですべてなのかもしれない。
こういうフラストレーションもあるかな。これはファイナンスの世界に限ったことではないけど。
「AならばB」という命題がある。これが”False”であるのはどういうときか。論理学の基本中の基本だと思うけれど、意外に理解されていないかもしれない。これについては、予備校のころの先生が面白い例題を出した。それは、
「動くな、さもなくば撃つぞ」
こういう些細なことがわかっていないと議論が成立しないことってわりとある気がする。
あとは、そうだなあ、どういう仮定をおいて、どういう結論を導いているのか。導きたい結論を直感的に考えてもいい。仮定もそれに応じて直感で見つけてもいい。だけど、結論はきちんとしたロジックで客観的に導く。どこを直観にたよってどこを客観でいくのか、このあたりがあいまいだとやっぱり議論が成立しない。反論しいては通常の受け答えすらできない。しようがないから。結論と仮定、結論と仮定の因果を混同するとか、あるいはそれらを直感的に都合よく入れ替えるなどもってのほかだ。
くどいようだけど、そこに「儲かる」というファクターがあればはっきりいってなんだっていいのかもしれない。コンプライアンス的にNGなことはだめだけど。
こういうのって数学、おそらく高校くらいの数学を通して学べることのはずだが、正直なところそれほど浸透していない気がする。不幸なことに日本の教育過程だと、機械的なサインコサインの計算、ログの計算、そして何を目的としているのかさっぱりわからない微積といった、機械的な計算を教えること、理解させることが中心だからなのだろうか。
高校とかで習う微分積分なんて社会に出てから役に立つのか、というとおそらく大半は役に立たない、というのは理にかなっていると思う。じゃあエンジニアリングで役立っているか、というと、ものすごい遠回りの意味で間接的には役に立っているけれど、きちんと役立てているエンジニアはほとんどいないのでは、というのを少なくともメーカー研究員を通して実感したつもり。
高校数学にはそんな機械的な計算を覚えるところに「こうした本質」はないと思う。そもそも本質がわかっていればそんなにたくさんの機械的計算を叩き込まなくってもいい。大学の専門課程で初めて習っても十分理解できると思うし、専門でない人はなおさら本質さえ分かっていれば細かい計算技術なんていらない。かえって邪魔なだけかもしれない。
まだ、メーカーのエンジニアは実験とか開発とか具体的な「モノ」を見ることができるので、本質をこうしたものを通して体感できるのかもしれない。これも短い期間ではあるが、メーカーにいたときに感じたこと。
「統計的有意性」(statistical significance)という言葉を、技術的な意味で使用しながら、「科学的重要性」(scientific significance)と同一視したクラインの信念。
というのは日本人の言葉ではないけれど、「この学問の世界」も似たようなものなのかな、と思ったりもする。
でも、本当にくどいようだけど「儲かる」ならば幾分ましではあると思う。悪いことをしなければの話であるが。