プライドとか見栄とか

essay

まあ、僕だって人間だからプライドをもってたりとか見栄を張ったりすることはある。

ある自分のマイミクさんが時々日記で主張されていることでもあるだけれど、身分相応とか年相応にふるまうってのは、単純に、必要最低限のマナーや教養のもとで、あまり他人の意見に左右されずに、自分でよしあしを判断して行動することだと思う。たとえ若くてたいした年収じゃなくても、ちょっと背伸びしてあるいは思い切って背伸びして高級車や高級ブランド品に手を出したっていいと思う。

でも、おそらく欧州のブランドって、その歴史や社会背景が影響しているのかどうかはわからないけど、なにか気品とか教養、特に教養かな、が暗に求められている気がしてならない。

そんなことを言っている自分も多くはないけどブランド品を持っているが、こうした教養に照らし合わせたとき、それに見合ってるかっというと、よくわかっていない。でも、少なくとも、自分がいいと思ってしている行動だし、他人にとやかく言われる筋合いはないと思っている。

教養ってなにかな、それは難しい。

古今東西問わず、先人の知恵や残して行った文明文化に対して自然と敬意を払うのは大事なのかなって。学生のころ先行していた物理とか、勉強するたびによくこんなこと考え付いたな、そしてそれをベースに改良したものを何百年も伝えてきたな、って関心することが多かった。これが学ぶ上で一番楽しかったことの一つだ。もちろんほかの学問だってそういう体験ができるはずだ。何も学問にかかわらず、料理なんかもその他産業についてもそうだ。

そして、経済的バリューがある者に対しては、その背景には人々を魅了した何か、その付加価値に見合うなにかがあるんだって、いったんは考えてみてもいいものだ。人間は馬鹿じゃないので、本質的価値を見抜くことがそれほどまでに難しいことには思えないし、やっぱり価値が実際ないものはすぐにメッキがはがれるというか、少なくとも四半世紀以上、人々から尊敬される、そしてその価値が反映されるようなことってまずないと思う。その判断が仮に難しくても、やはり長年人々から高く評価されていたのもはそれなりの価値がどこかにあると思う。

まあ、そういうことを考えながら、身分や立場がどうであれ、自分でよしと思ったものに投資すればいい。他人の意見は参考にするけど、判断は自分でしてます、って感じさせられれば、多少なりとも教養とか気品を感じさせることができるのかもしれない。それを教養というべきかどうかはわからないけれど、何も自分で考えず周りに流されているっぽく見える人よりかはましかもしれない。

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