政治と宗教

essay

個人的な意見としては、話題にするのはタブーかなっと。

特に意識して、よく知らない人、初対面の人と話したりするときなんかには、深入りしないようにしていることの一つです。といいつつも、今日はちょっとそれに関係ありそうなことを書いてみます。でも結果的には、関係ない内容になるはずです。

さてさて、最近のニュースで某映画の上映が見送られたり中止になったり、そんなことを聞きました。一方的な視点で描かれているとか、国から補助金がでてたとか、言論の自由だとか、そんな議論がなされているようです。

僕の父方の祖父は、僕がちょうど高校2年生になる直前の春に病気でなくなったのですが、祖父も戦争経験者です。実際、東南アジアの激戦地、確かな記憶ではありませんがパプアニューギニアあたりに行っていたそうです。

その戦地に赴いて命ながらに帰国したのは、祖父を含めて2,3人だったと、父親から間接的に聞いたことがありました。当然経験もしていないし、直接祖父からそういう話を聞いたことがなかったので、せいぜい想像することしかできません。でもきっと、友人や同僚が目の前で殺されているのを目撃し続けたのでしょう。あるいは昨日まで語らっていた人が突然亡くなってしまった、そんな経験をずっとしていたのでしょう。

祖父も終戦の日、あるいは何か思い悩んだ時には、あの神社によく通っていたそうです。

その神社に参拝に行くとああだこうだという人たちもいるみたいですが、確かに政治家のパフォーマンスとしていろいろな意味を持たれてしまうのは理解できるものの、個人レベルでは本当にどうでもいい話です。個々人が考える人の命の尊さに前にくだらない政治的立場とかそういう下品な話題は必要ないでしょう。目の前で友人が殺された、その友人の冥福を祈る、今の自分が生きていることを感謝する、そこにいまさら政治的思想なんていらないと思います。政治家は政治家として適当に考えてくれればいいと思います。

ところで、祖父の戦争の話をするとき、父は必ずと言っていたことがあります。祖父が助かった理由の一つは、「数学と物理ができた」ということ。

どういうことかというと、祖父は数学と物理が得意だったので、戦地で上官の教師をしていたそうです。軍隊の上官も出世するためには基礎的な理学・工学の知識を問う試験があったそうで、それを受かるためにたまたま部下で理数系が強かった祖父を大事に扱い、危険な最前線に派遣しないなど優遇を受けていた、ということもあったようです。

もっとも、こんな話を聞かされたのは僕が子供の頃だったので、単に子供に勉強させようとしてわざと言っていたのかもしれません。ただそれが真実かどうかはわかりませんが、いずれにしてもなんとなく物理や数学をとりあえず勉強しておこうか、と無意識に思っていたのでしょう。知らない間に特に強く希望もせずに理学部へ進んでいました。

戦争を例に出すことは不謹慎かもしれませんが、勉強というものも何かの場面で役に立つものなのかなっと思ったりもするエピソードです。そう思う自体実は祖父や父に”洗脳”されただけなのかもしれませんが、いずれにしてもこれらの分野が相変わらずこんな仕事でも役立っていることを実感しています。

ちなみに進学する大学についても、よく祖父はいつも会うたびに「ゆうちゃんは●●大へ必ず行くんだ」と子供のころからずっと言っていました。なので志望校も自分であまり考えず決まっていたような感じでした。まあ、実際のところはいろいろな事情によって若干修正されましたが、結果的に半分当たったような結果になったといえるでしょう。

でも今は全く違う分野の会社で働いています。いったい祖父はどう思うのでしょうね。仮にどう思おうとどうしてこういうことしているのかってことはそれなりに説明できる、そんな年にはなったのかなあと思っています。

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